【第2回】悪戦苦闘した駆け出し営業
いつもあすなろ投資顧問をご利用頂きまして誠にありがとうございます。
コンプライアンス部長の藤井です。今から20年前の1997年11月24日は以前私が勤務していた当時四大証券の一角の山一證券が自主廃業を発表した日でした。本日第2回は悪戦苦闘した営業エピソードを書かせて頂きます。
最後までお読みいただければ幸甚です。
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【第2回】悪戦苦闘した駆け出し営業
私は配属先では都内を希望し上野支店に配属になった。配属先は4月から1か月にわたる研修の最終日に、人事部から新入社員全員の前で1人1人言い渡されます。
実は私は第一志望が海外支店を希望し、次に都内支店、次に大阪周辺を希望していた。結果上野支店になったが前年の内定が決まった数か月後に、実はコッソリ中央大のクルーターの先輩社員の方々に、地元岡山の名産の白桃をお礼の袖の下として持って行ったのだ。その威力で上野支店になったと改めて思い返し、岡山県人として初めて白桃に感謝した。私としてはどうしても海外が無理なら都内の支店配属を切に願っていた。やはり大都会東京に勝負しに来ている志を常に持っておきたかったからだ。
上野支店配属日【1991/5/1の日経平均は26489円】
上野界隈に証券会社は大手四社は勿論、当時大小10社近くが支店を出していた。新人営業マンは私を含め同期4人、配属初日は挨拶と諸事務手続きで営業準備を済ませ、翌日から名刺500枚を渡された。その名刺を「一日で全部配って来い!」と言われ飛び込み訪問が始まる。
飛び込み訪問は当然初めてだったが、私は大学の卒業旅行のニュージーランドでバンジージャンプをやり、予め度胸を付けておいた。更に19歳で初めて海外にバックパッカーで行ったスペインのマドリッドで荷物を盗まれ日本に帰国出来ない事態になり、自力で帰国手段を見つけ日本に今いることが出来、逆境にも慣れが有った。
新人の営業は兎に角、一件でも訪問してお客様を作り、株を買って頂くことを朝から晩までやり続ける。私の切り札は新規公開株(IPO)営業だった。当時、ユニクロ、ソフトバンク、ヤフー等で大儲けした。
【逆境は全ての生物の進歩と発想の原点である】
と唱える有名な支店長もいた。人の山一と言われる所以で人材教育に関しても層が厚かったが優秀な方が本当に多いと感じた。
平成3年入社の我々の同期は約600人内、営業配属は300人だ。因みに一般職の女子は約1200人も同期がいた。この300人はいつも敵対視して競争する、毎月全国の130支店の同期営業ランキングが紙ベースで回覧が来て刺激になった。私以外にも山一を日本一の証券会社にして、自分が同期でトップになりたい鼻息の荒い連中がゴロゴロいた。
私の初めてのお客様は支店すぐ近くの不動産屋に勤務するサラリーマンの方でした。訪問した時に社長様は不在で、対応をしてくれた男性社員の方でしたが新日鉄の株を10万株(当時の時価で5000万円位)を持っている資産家であることがわかった。その後も株式情報提供を続けていると、当時銀行よりもいい貯蓄商品の中国ファンドをご購入して頂いた。
山一證券の名刺の威力は絶大だ。名刺一枚でアポイント無しで上場会社の社長と大学出たての新人社員が面談できることもあった。ある日、相も変わらず飛び込み訪問をしていると当時鶯谷駅近くに一部上場の山一主幹事の勝村建設に飛び込み、社長面談を申し出て対応した秘書にひどく叱責された。既に山一とは取引も上場もしているのに青二才の私がしかもアポイント無しで訪問したからだ。当然支店に帰ると勝村建設の担当である本社の事業法人部から上野支店長にこの失態が報告され、私は再度支店で怒られたのは言うまでもない。
証券マンにとって自筆でお礼の手紙を書くことは大変重要だ。飛び込み訪問で初対面にも拘わらず、ご面談頂いた企業経営者様宛にここぞと言うときは筆ペンで御礼状を書いた。私は幼稚園から習字を習い、書道は二段の資格もあったのでそれなりの筆には自信があった。
当時は目の前のノルマの数字だけが頭の中にあり、寝ても覚めても数字、数字。毎日、毎時間、毎分追われる日々でした。朝の寄り前の8:30に株の予約の集計から始まり夜20:00の投信の約定まで集計は30分ごとに続いた。
山一では営業数字が出来ていなくても、出来たことにして締切日前に上司に報告をする事を空(カラ)を振るという。野村だと呼び名が違うらしいが、各証券会社でも同じようなことはやっていたのだ。「藤井!今日は投信いくらだ?」「300万です」「空じゃねーだーろーなー」の様に使われます。また、申告していた営業数字が最後まで出来ないと上司に謝罪に行きます。そのことを「しょんべん」と言います。「藤井!今月もまたしょんべんか!課長に詫び入れて来い!」の様に使われます。一説によると吉原の女郎が嫌なお客の相手をしたくない時に、失禁をして御代を払ったお客は面白くないので帰る、所謂、契約不履行の事をそう呼んだそうだ。
年次が上がって来ると徐々に日曜日の夕方が憂鬱になり、金曜日の夜が待ち遠しくなる。しかし、後ろ向きな仕事でなく、投資家に夢と希望とパフォーマンスを提供する仕事を担っているという自負は常にあった。
お客様の中では同業他社の証券会社と比較される事も多く、山一は過去日本一の証券会社だっただけに知名度と信頼は想像以上にあった。私はどこかおっとりとして人柄がいい印象と言われるのが常だったが、証券マンとしては本当はもっとガツガツしている方が良かったかもしれない。
そして1996年4月営業主任として東大阪支店に転勤【1996/4/1の日経平均は21560円】
今回はこのあたりで終わりにします。
最後までお読み頂きありがとうございます。
明日は山一證券が日本一の座から落ちて行く背景を昭和40年証券不況まで遡ってみたいと思います。
執筆:藤井 勝行
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