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あすなろ投資顧問

2020-11-18 11:00:00

まんもす藤井。の銭話物語

【山一コラム】第2回『悪戦苦闘した駆け出し営業』

いつもあすなろ投資顧問をご利用頂きまして誠にありがとうございます。

『まんもす藤井。の銭話物語(ぜにばなものがたり)』

まんもす。藤井です。

皆さんは≪モトヤマ≫という言葉を聞いたことがありますか?

モトヤマとは突然、元山一と言わざるを得ない状況になった元山一證券の社員の通称です。

今から23年前の1997年11月24日は、以前私が勤務していた当時四大証券の一角の山一證券が自主廃業を発表した日です。本日第2回は悪戦苦闘した営業エピソードを書かせて頂きます。

最後までお読みいただければ幸甚です。

▼【第1回】をまだお読みでない方は下記よりご覧ください。
【山一コラム】第1回『山一證券に辿りついた運命』

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【第2回】悪戦苦闘した駆け出し営業

私は都内を配属先に希望していました。4月から1か月に亘る研修を経て最終日に、人事部から新入社員全員の前で1人1人配属先を言い渡されるのですが、私の配属先は希望通り東京上野支店となりました。

実は私は第一志望が海外支店、次に都内支店、次に大阪周辺を希望していました。
その結果、上野支店になったのですが、前年の内定が決まった数か月後に、実はコッソリ中央大のリクルーターの先輩社員の方々に、地元岡山名産の白桃をお礼の袖の下として持って行っってたのです。その威力で上野支店になったと改めて思い返し、岡山県人として初めて白桃に感謝しました。私としてはどうしても海外が無理なら都内の支店配属を切に願っていた。やはり大都会東京で勝負しに来ている志を常に持っておきたかったからです。

上野支店配属日【1991/5/1 日経平均は26489円】

上野界隈に証券会社は大手四社は勿論、当時大小10社近くが支店を出していました。新人営業マンは私を含め同期4人、配属初日は挨拶と諸事務手続きで営業準備を済ませ、翌日から名刺500枚を渡されました。その名刺を「一日で全部配って来い!」と言われ飛び込み訪問が始まりました。

飛び込み訪問は当然初めてでしたが、私は大学の卒業旅行のニュージーランドでバンジージャンプに挑んだことや、19歳の初めての海外にバックパッカー(低予算で国外を個人旅行する)で行った際、スペインのマドリードで荷物を盗まれ日本に帰国出来ない事態になり、自力で帰国手段を見つけ何とか日本に帰国したりと、その頃の経験のお陰か逆境にも強く度胸がついていました。

新人の営業は兎に角、一件でも訪問してお客様を作り、株を買って頂くことを朝から晩までやり続けるものです。私の切り札は新規公開株(IPO)営業だでした。当時、ユニクロ、ソフトバンク、ヤフー等で大儲けしたものです。

【逆境は全ての生物の進歩と発想の原点である】
と唱える有名な支店長もいました。人の山一と言われる所以で人材教育に関しても層が厚く優秀な方が本当に多いと感じました。

平成3年入社の我々の同期は約600人。内営業配属は300人でした。因みに一般職の女子は約1200人も同期がいました。この300人はいつも敵対視して競争し、毎月全国の130支店の同期営業ランキングが紙ベースで回覧し刺激になりました。私以外にも山一を日本一の証券会社にして、自分が同期でトップになりたいと鼻息の荒い連中がゴロゴロいました。

私の初めてのお客様は支店近くの不動産屋に勤務するサラリーマンの方でした。訪問した時に社長様は不在で、対応をしてくれた男性社員の方でしたが新日鉄の株を10万株(当時の時価で5000万円位)を持っている資産家であることがわかったのです。その後も株式情報提供を続けていると、当時銀行よりもいい貯蓄商品の中国ファンドをご購入して頂きました。

山一證券の名刺の威力は絶大でした。名刺一枚でアポイント無しで上場会社の社長と大学出たての新人社員が面談できることもありました。ある日、いつもの様に飛び込み訪問をしていると、当時一部上場の山一主幹事の勝村建設(鶯谷駅近く)に飛び込み、社長面談を申し出て対応した秘書にひどく叱責されたこともありました。既に山一とは取引も上場もしているのに青二才の私がしかもアポイント無しで訪問したからです。当然支店に帰ると勝村建設の担当である本社の事業法人部から上野支店長にこの失態が報告され、私は再度支店で怒られたのは言うまでもありません。

証券マンにとって自筆でお礼の手紙を書くことは大変重要でした。飛び込み訪問で初対面にもにもかかわらず、ご面談頂いた企業経営者様宛にここぞと言う時は筆ペンで御礼状を書きました。私は幼稚園から習字を習い、書道は二段の資格もあったのでそれなりに筆には自信がありました。

当時は目の前のノルマの数字だけが頭の中にあり、寝ても覚めても数字、数字・・・。毎日、毎時間、毎分追われる日々でした。朝の寄り前の8:30に株の予約の集計から始まり夜20:00の投信の約定まで集計は30分ごとに続きました。

山一では営業数字が出来ていなくても、出来たことにして締切日前に上司に報告をする事を「空(カラ)を振る」と言いました。(野村だと呼び名が違うらしい)各証券会社でも同じようなことはやっていました。「藤井!今日は投信いくらだ?」「300万です」「空じゃねーだろーなー」の様に使われます。また、申告していた営業数字が最後まで出来ないと上司に謝罪に行きます。そのことを「しょんべん」と言います。「藤井!今月もまたしょんべんか!課長に詫び入れて来い!」の様に使われます。一説によると吉原の女郎が嫌なお客の相手をしたくない時に、失禁をして御代を払ったお客は面白くないので帰る、所謂、契約不履行の事をそう呼んだそうです。

年次が上がって来ると徐々に日曜日の夕方が憂鬱になり、金曜日の夜が待ち遠しくなりました。しかし、後ろ向きな仕事でなく、投資家に夢と希望とパフォーマンスを提供する仕事を担っているという自負は常にありました。

お客様の中では同業他社の証券会社と比較される事も多く、山一は過去日本一の証券会社だっただけに知名度と信頼は想像以上にあります。私はどこかおっとりとして人柄がいい印象と言われることが常ですが、証券マンとしては本当はもっとガツガツしている方が良かったのかもしれません。

そして1996年4月営業主任として東大阪支店に転勤となります。

【1996/4/1 日経平均は21560円】

今回はこのあたりで終わりにします。

明日は山一證券が日本一の座から落ちて行く背景を昭和40年証券不況まで遡ってみたいと思います。

最後までお読み頂きありがとうございます。


執筆:藤井 勝行

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