株式会社あすなろ 関東財務局長(金商) 第686号 一般社団法人 日本投資顧問業協会 第011-1393

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あすなろ投資顧問

2020-11-19 11:00:00

スペシャル無料コラム

【山一コラム】第3回『自主廃業の負の遺伝子』

いつもあすなろ投資顧問をご利用頂きまして誠にありがとうございます。

『まんもす藤井。の銭話物語(ぜにばなものがたり)』

まんもす。藤井です。

皆さんは≪モトヤマ≫という言葉を聞いたことがありますか?

モトヤマとは突然、元山一と言わざるを得ない状況になった元山一證券の社員の通称です。

今から23年前の1997年11月24日は、以前私が勤務していた当時四大証券の一角の山一證券が自主廃業を発表した日です。本日第3回は山一証券の自主廃業の負の遺伝子を探って行きます。

最後までお読みいただければ幸甚です。

▼まだお読みでない方は下記よりご覧ください。

2020/11/17 11:00
【山一コラム】第1回『山一證券に辿りついた運命』

2020/11/18 11:00
【山一コラム】【第2回】悪戦苦闘した駆け出し営業


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【第3回】自主廃業の負の遺伝子

【1996/4/1 日経平均は21560円】

1996年4月、初めての転勤で営業主任として東大阪支店に赴任しました。この支店は近鉄の布施駅の駅前に位置し、上野支店よりは一回り小さい規模でした。私は幼少のころ叔母が東大阪市に住んでいたので何度か東大阪には来たことがありました。敢えて言うと上野も東京の下町、東大阪市も町工場が密集する下町の雰囲気が共にある町という感じでした。


ここで過去の証券ビジネスの変遷を振り返っておきます。古い話しですが重要な部分なのでお付き合いをお願いいたします。

話しは昭和30年迄遡ります。昭和30年代の高度成長期の前半は、金融緩和を背景に株価は上昇を続けました。一つの要因が株式投資信託。しかも平均年利回りが2割から3割、その結果個人金融資産に占める株式投信の比率は1959年の5.8%から1961年には17.6%と一気に増加したのです。浮動株が全体的に少なく、株式の発行数が相対的に少なかったこともあり、株式の需給関係を逼迫させ、株価の高騰を招きました。しかし問題は証券業界にとって経営規模の拡大に見合う資金調達の方法はほとんど制度化されていなかったことです。現在は新株引受権付き社債・普通社債・劣後ローン・優先株など多様な調達方法があるが、当時は資本市場が未発達であったため、資金調達の手段は、今では廃止されている運用預かり制度でした。実は大蔵省が1955年に大手4社を含む証券19社に認めたこの制度こそが、山一事件を起こす大きな原因になったと言われています。

では、運用預かり制度とは何か。

各証券会社は、長期信用銀行が発行する金融債を受託販売していました。だが、証券会社は顧客にいったん売却した金融債を日歩一厘の品借料を払ってまた預かり、それを銀行からの借り入れ、あるいはコール・マネーの取り入れに対する担保として用いて得た資金で、株式や公社債の在庫金融や自己売買を行っていたのです。この資金は自社の自己売買(投機的売買益)を得るための資金として用いられましたが、さらに証券会社は、その買い付け済みの株式を担保として、掛け目7割で資金を借り、株式を買い付けました。この「買い付け株式→担保差し入れ→銀行借入金→株式買い付け」の循環は驚愕なレバレッジが掛かっていたことになります。預金と同様の効果を生むという点では金融債の購入者である顧客にとって、また資金調達の手段としては証券会社にとってさらに販売増に繋がる点では発行銀行にとってもそれぞれこの制度にはメリットもありました。

だが1961年に株価がピークを付けた時点以降、逆回転が始まったのです。

この制度は仮にお客が証券会社に預けた金融債の解約をした場合には窮地に追い込まれるものです。証券会社がお客に返金するには手持ちの株を売却し、その代金を借入金の返済として貸手に支払い、担保の割引金融債を取り戻さなければならないのです。また、1962年頃から始まった投信解約の増加についても、株式の売却で対応をした為、株価は更に暴落しました。

公社債投信が不信に陥ったことも、影響は大きなものでした。当時は、公社債の流通市場は未発達であったことから、解約された公社債の大半は証券会社が引き取るか、株式投信が買い入れるかせざるを得なくなり、これがまた証券会社の資金繰りを圧迫しました。

1961年7月の公定歩合の引き上げに始まる金融引き締め政策は、それまで上昇していた株価や公社債価格の急落を現実のものにしました。こうして株価はそれ以降下落を続け、証券会社の経営は悪化し株価対策をしても、証券に不況に繋がって行ったのです。

この証券不況時に山一の優秀な人材や資産が外部に流出し、体力を弱めていきました。しかし、バブル相場が訪れ崩壊後も大手四社の一角にしがみつき【法人の山一】は死守するべきは金看板であり、企業との馴れ合い体質から抜け切れずに安易な営業戦略を選択していくことになるのです。挙句の果てには「株価さえ戻れば何とかなる」と言う他力本願的な言葉は山一の首脳で繰り返し使われることになり、日本の最高学府を出た経営連中はお粗末限りでした。何とも情けない話しですが、そこを選んだのも私自身です。。

やはり相場の本質を分析し理解していれば途中で損失処理はいくらでもできたはず。学校の勉強も大事だが相場の勉強をしてこなかった経営陣の付けは後の祭りだが大きかったように思えます。そして…私が生まれる3年前(1965年)に証券恐慌を引き起こすことになるのです。

【1965/1/4 日経平均は1227円】

今回はこのあたりで終わりにします。

明日のコラムはいよいよ佳境に入って行きます。
明日は山一證券が遂に、自主廃業を発表していく過程とその後の混乱をつづります。

最後までお読み頂きありがとうございます。


執筆:藤井 勝行

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