株式会社あすなろ 関東財務局長(金商) 第686号 一般社団法人 日本投資顧問業協会 第011-1393

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あすなろ投資顧問

2020-11-20 11:00:00

スペシャル無料コラム

【山一コラム】第4回『自主廃業発表までとその後の混乱』

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『まんもす藤井。の銭話物語(ぜにばなものがたり)』

まんもす。藤井です。

皆さんは≪モトヤマ≫という言葉を聞いたことがありますか?

モトヤマとは突然、元山一と言わざるを得ない状況になった元山一證券の社員の通称です。

今から23年前の1997年11月24日は、以前私が勤務していた当時四大証券の一角の山一證券が自主廃業を発表した日です。本日第4回は山一証券の自主廃業発表までとその後の混乱を綴ります。

最後までお読みいただければ幸甚です。

▼まだお読みでない方は下記よりご覧ください。

2020/11/17 11:00
【山一コラム】第1回『山一證券に辿りついた運命』

2020/11/18 11:00
【山一コラム】【第2回】悪戦苦闘した駆け出し営業

2020/11/19 11:00
【山一コラム】【第3回】自主廃業の負の遺伝子

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【第4回】自主廃業発表までとその後の混乱

自主廃業1か月前【1997/10/24日 経平均は17363円】

山一の毎月給料天引きで溜めた自社株も保有していたので、それなりに自社株が気になり始めたのは廃業発表前の月でした。11月に入ると山一株が毎日のように下がり、拓銀、三洋証券が次ぎ次ぎと倒産して行くのを見ていると、私のお客様も山一から株券や出金を要請することが頻繁増え、経理の女子社員が泣きべそをかきながら業務処理をしてくれた時の罪悪感は何とも言えないものがありました。この時【もしかして】と思いはじめましたが、当時は外資系証券との資本提携などで、最悪看板は代わっても会社はなくならないと正直思っていました。

ついに【その日】がやって来た。

3連休でもあり私は結婚の結納をしたばかり。遠距離恋愛だった私はその日は埼玉の妻の実家に泊まっていました。義父が自営業で帰宅が深夜なので寝ずに起きていて、晩酌のお付き合いをし、その日は明け方に寝ました。就寝が遅かったせいかお昼近くに義母に起こされ、TVのニュースで山一が大変なことになっている事をそこで初めて知ったのです。携帯の充電器を持って居なかった私は寝る時は電源を切っていました。電源を入れると留守電が20数件あり、内容は聞かなくても自ずと察しが付きました。

【自主廃業】この4文字の意味が全く分かりませんでした。私は相撲部屋でもあるまいし、勝手に業務を止めるってどういうことだ?いったい本当は何が起こったんだ?と何度も思い返しました。翌日急いで大阪に戻りましたが、11/25は予想通り東大阪支店は株券や出金を求めるお客様が殺到。いつものように7時半には出勤し、支店長の指示で清算作業を次々に熟しました。昼食、夕食もとらずに鳴り続ける電話を取り誠心誠意に対応しました。寮に帰り、日付は変わって就寝時間を迎えても、支店の電話の呼び出し音が目蓋を閉じても耳に鳴り響いて寝付けなかった異様な感覚を今でも憶えています。

この日【1997/11/25 日経平均は15867円】

日経平均は前日比854円安と暴落し山一ショックとなりました。

私の尊敬する一年上の先輩(私が中央大のOB訪問をして、山一入社の引き金にもなった方)が大口のお客様に泣きながら「すいません、今後は相場の話しが○○さんと出来なくなってしまいました」と男泣きを目の当たりにした時、本当に自分の会社が潰れたんだと実感しました。

廃業発表した11/24の3週間前の11/3の文化の日に、私は妻と大阪全日空ホテルで結納をしたばかりでした。今思えば破断にはならずよく付いてきてくれたと思うばかりです。今でも感謝しています。大阪寝屋川の同じ独身寮に居た2年上の先輩は廃業後に婚約破断となりTV取材を受けていました。後にこの話を聞いた時は人間不信にも陥りそうになりました。

皮肉にも山一證券が100周年を迎えたのが廃業を発表する約7か月前の4/15。次の100周年に向かって我武者羅に突き進み、山一と共に殉職しても本望と思っていました。今では101年目の幻のカレンダー(1998年版の山一證券製作のカレンダーで、毎年お客様にお配りするもの)を大事に保管しています。

廃業後約一ヶ月して暗いお正月を実家の岡山で迎えた時、まだ再就職先は決まっていませんでした。母が親密な地元の信用組合の支店長代理の方に母が密かに再就職を相談してくれていました。しかし、当時私は29歳でしたがお給料の面で格差が大きいので厳しいとのことだったそうです。ただ母としてはもう岡山に帰ってきて、長男でもある私にそばにいてほしいとの思いは言わなくても伝わっていました。山一の自主廃業は私が東京で負けたわけではなく、このままでは自分に納得がいかず尻切れトンボになるのは嫌でした。再度東京で勝負させてほしいと母に頭を下げました。2年前から腎不全になり人工透析が始まっていたにもかかわらず母は何も言わずに許してくれました。

今思えば不思議なもので、廃業直後から山一の伝統や歴史、功績等の思い出話しが絶え間なく聞こえてきました。中でもこれだけは是非お伝えしたいと思います。

山一證券は1897年、小池国三商店として山梨で創業。1926年に山一證券株式会社になりました。この頃、伊勢神宮の一番神楽になったと云われています。そのことから日本を代表する企業であると云う自負が窺えます。実際、かつては業界のトップ企業で東証の値付けの9割は山一経由でした。
伝統と格式、経歴と実力からみても、最も日本民族を象徴する企業でした。一般的にはほとんど知られていませんが、山一證券は伊勢神宮の「一番神楽」で、それは氏子のトップの座。由緒ある伊勢神宮の氏子の代表であり、この一番神楽がどれほど名誉ある地位かというと、毎年1月1日に伊勢神宮で行われる「歳旦祭」が、それをよく物語っています。

伊勢神宮と皇室が一体であることは、誰もが知っているかと思います。天皇をはじめとする皇室の面々は、伊勢神宮の奥の院でお祓いを受け、お神酒を拝領します。一番神楽は、その次の部屋で同じようにお祓いとお神酒を受けるのです。つまり、天皇家の次に日本を代表する儀式に与ることができる栄誉をもっているという事です。山一證券の社長は毎年正月になると、伊勢神宮の祭り始めの儀式に参加しそこでもらったお札とお神酒を、会社の神棚に飾るのです。この名誉ある地位を、かの松下幸之助(松下電器の創業者)が切望し、お金はいくらでも出すから一番神楽の権利を譲ってくれるよう直に交渉したそうですが山一が承諾しないと、今度は伊勢神宮の遷宮祭(20年に一度、内・外宮の正殿などの諸殿を建て替え、そこに納められている装束神宝も新たに整える式典)などの莫大な費用を寄付して、一番神楽の権利を求めたそうですが、手に入れることはできなかったそうです。

因みに廃業までの松下電器の主幹事は歴代山一證券が務めました。山一證券は、その権利を有する民族派企業。ある意味では日本を象徴する株式会社だったのがお分かり頂けると思います。

1997年当時、日本で(1996年から2001年度にかけて行われた大規模な金融制度改革を指す所謂)【金融ビックバン】が始まっていました。この時期に銀行など金融機関の「護送船団方式」を崩壊させるような改革が進行し、その後2002年以降には、銀行業・保険業・証券の各代理業解禁など規制緩和が進行。これにより外資系証券、銀行が雪崩の様に日本に入り込みビジネスを拡大しました。廃業後は米系のメリルリンチ証券が山一の主要店舗と人材を受け入れ米国流の資産管理型営業を導入するも4年で日本撤退となります。

ここで疑問が残ります。飛ばしは当時他の大手3社も多少なりともあったとされ、金融ビックバンで日本を象徴する会社を政府が差し出したのではないかとされるのです。それに山一は昭和40年証券不況時に一度倒産しかけました。社風もおっとりとしている山一を外資の生贄にするには丁度良かったとのでしょう。金融業界は規制が厳しく外資が中々参入できないので山一を解体する事によりに金融自由化の門戸を開いたのではないか?やはりこの時期以降に外資系証券に人材が大量に流れ始めた契機になったと思っています。

そこには恐ろしい旧大蔵省の「思惑」が働いていたようです。当時の首相は橋本龍太郎(皮肉にも岡山出身)で、最大の政策は行政改革だ。しかしそこで掲げる「財政と金融の分離」は、当時の旧大蔵省にとって絶対に潰したいものだったです。

1997年11月14日大蔵省の長野証券局長を訪ねた山一證券の野沢社長に対し、長野局長はハッキリと【山一證券は三洋証券とは規模が違う】と支援を約束しました。この時点では山一の抱える巨額簿外損失も長野局長に詳しく説明してありました。ところが同じ1997年11/14に橋本首相が小村大蔵省次官に「財政と金融の分離」を最終通告したため、そこで旧大蔵省の態度が一変したのです。つまり山一證券が破綻して財政出動となるなら、金融政策も一体として旧大蔵省が主導権を取らなければならないという理屈。三洋・拓銀・山一證券「消滅」は、すべて橋本行政改革とくに「財政と金融の分離」を潰すための旧大蔵省のクーデターだったことになるのです。

11/23の午前3時20分に日経新聞が【山一證券、自主廃業へ】との第一報を打ちました。この報道はもちろん旧大蔵省のリークでこの時点の山一證券は債務超過にはなっておらず、したがって旧大蔵省としては巨額簿外損失の相談なども受けたことがなく、ただ山一證券が自主的に廃業したとして見事に梯子を外しました。当時山一は株主資本で4300億円あり2600億円の簿外債務が発覚してもなぜ潰れるかが私には理解できなかった。やはり今でもスケープゴートにしか私には思えてなりません。

今回はこのあたりで終わりにします。

明日のコラムは遂に最終回、廃業後から現あすなろ投資顧問までの証券ビジネスへの思いを綴ります。

最後までお読み頂きありがとうございます。


執筆:藤井 勝行

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